異界通信 編集部|特別調査レポート
発見 ― 謎の書物
1912年、運命の書1912年、イタリア・ローマ近郊。古書収集家ウィルフリッド・ヴォイニッチは、一つの箱を手に入れた。中には、誰にも読めない言葉で書かれた一冊の羊皮紙の書物が眠っていた。大きさは23.5×16.2cm。約240ページ。それは、他のどんな写本とも異なっていた。未知の文字が整然と並び、その周囲には、現実では見たことのない植物、天体、そして裸婦が描かれていた。後にこの書は、彼の名を冠して「ヴォイニッチ手稿」と呼ばれることになる。

難解 ― 書かれたのは“何語”
手稿は左から右に書かれており、文字は規則的。統計学的解析によっても、自然言語のような構造を持つことが判明している。しかし、世界中の言語データベースにも一致する言葉は一つもない。暗号学の天才ウィリアム・フリードマン、人工言語研究の第一人者スティーブン・バックス、そして現代AIによる解析までもが挑んだが——“意味”を導き出した者は未だいない。ヴォイニッチ手稿は、解読のための鍵すら存在しない暗号なのだ。

絵が語る ―もう一つの言語
手稿の半数以上を占めるのは、文字ではなく「絵」である。奇妙な植物のスケッチ、星々をつなぐ円形図、複雑な水路、そして湯に浸かる女性たち。どの絵も緻密で、科学的観察の痕跡がある。だが、描かれている植物のほとんどが現実には存在しない。天体図もまた、既知の星座とは異なる配置を示している。それはまるで、別の世界の自然誌——我々の地球とは違う法則で動く“異界の生命”を記録したようにも見える。

封印された知識 ― “禁断の手稿”
この書は、単なる絵本ではない。そこには、**「知を隠す意志」**が感じられる。中世の錬金術師たちは、迫害を逃れるために思想や実験記録を暗号化して記した。エドワード・ケリーによる偽書説、修道女による女性医療書説、あるいは滅亡した民族による神秘的言語の遺書説など、諸説が存在する。2014年、スティーブン・バックスは、「中東起源の消滅言語で書かれている可能性がある」と発表。2024年にはマッコーリー大学の研究で、手稿に描かれた“浴槽の女性たち”が女性の生殖や避妊儀式を暗号化した記録ではないかと指摘された。つまり——この本は「女性の身体と再生」を中心に据えた、禁じられた生命学の書かもしれないのだ。

迷宮としての言葉 ― 知識の鏡
ヴォイニッチ手稿の本質は、「読めない」ことそのものにある。もしこの文字が完全に解読されたなら——その瞬間、手稿はただの“古いノート”に成り下がるだろう。しかし、誰にも読めないからこそ、それは永遠に“未知”の象徴であり続ける。言葉が世界を説明するのではなく、世界が言葉を超えて存在することを示す。ヴォイニッチ手稿は、知識の限界を指し示す“鏡”なのだ。

現代へと繋ぐ ―“手稿の呪縛”
現在、手稿はイェール大学バイネキ稀覯本・手稿図書館に所蔵され、インターネット上でも全ページが公開されている。AI技術の発展により、数十億パターンの文字解析が試みられたが、いまだ統一的な解釈は出ていない。興味深いのは、手稿のレプリカを手にした研究者や芸術家たちが、「夢に同じ図形が現れた」と証言するケースがあることだ。まるで、この本そのものが**“思考を呼び起こす装置”**であるかのように。手稿は読むものではなく、見ることで“感染”する言語なのかもしれない。

筆者考察 ― “言葉の外”にあるもの
筆者はこの手稿を、**「人類の知が生む無意識の結晶」**と捉えている。我々は、理解できないものを恐れ、理解できるものを支配しようとする。だが、ヴォイニッチ手稿はそのどちらでもない。それは、「理解されないまま存在すること」を選んだ書である。もしこの書が意図的に作られたのだとしたら、それは**“人間の理性を試す罠”**だ。意味を追い求めるほど、読者は迷宮に沈んでいく。そして気づく——手稿の文字とは、読むためのものではなく、**“思考を観測させる鏡”**なのだと。
沈黙する知の書 ― 600年の時を超え
ヴォイニッチ手稿は今も静かに語りかけている。「あなたは、どこまで“知りたい”のか?」その問いに答えるのは、AIでも学者でもなく、この書を見つめるあなた自身だ。手稿は、今日もページの奥で微かに光を放っている。理性の言葉では届かない場所で。
現地情報・アクセス
📍 イェール大学 バイネキ稀覯本・手稿図書館



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